⇒筆のしずく   
        筆のしずく  別冊     「筆のしずく」の中で、長文のものを記載します。 
  御領山大石歌         
               
上 泰二
安永八年(1779)、茶山(32歳)は最後となる京坂6回目の遊学を翌年
に控え、大石が多いことで有名な御領山に登り、石を一つには仙境の人
もう一つには鉄心剛膓の士に準え、時の幕藩政治の有り様に憤懣やるか
たない胸の内を吐露した。

 御領山大石歌

  御領山頭大石多 
  或群或畳闘嵯峨 
  大者如山小屋宇 
  遥如萬牛牧平坡 

 
 
 
先ずは御領山全景をクローズアップ。(御領山には大きな石が多い。あるものは群がり、またあるものは重なり合い、嵯峨(高低)を競い合っている。大きいものはまるで山のよう、小さいものも家屋ぐらいある。見渡せば遥か彼方の(高屋川)堤で草を食んでいる牛の群れさながらの岩石群)相手に語りかけた。

 吾嫌世上多猜忌 
 楽子無知屡来過 
 此日一杯発幽興
 吾且放歌子妄聴


(私は今の世の中に妬み嫉みが多いことが嫌だ。私はそんな俗事に染まないお前たちが羨ましく、屡々ここにやって来て刻を過ごすようになった。今日も一杯ひっかけ、ほろ酔い加減で常日頃鬱積している幽懐を思いたけ発散するので、いい加減に聞き流してもらいたい)

 如今朝野尚因循
 苟有所為觸渠嗔
 憐子剛膓誰采録
 不如聾黙全其身


(今の世の中は官民ともども進取の気もなく古くからのしきたりを漫然と踏襲している。
かりそめにもそのことを糾そうとしようものならたちまち彼らの逆鱗に触れる。お前たち石がものの道理を弁えた気骨漢だと判っていても誰もお前の意見を取りあげてくれないだろう。情けないことだが耳塞ぎ何も言わざるで我が身の保全を図るに越したことはない)

昨今の幕藩体制は将に「飢烏嚇腐鼠 怒鵬 博層穹 群情各有執」。自らの利権に執着し大義を断行しようとしない。隣国の閑谷を訪れ痛感したことだが、「宇宙軌非異 君民體固同 誰能反其本 推恩蘇三農」換言すれば法度をよく守らせ風俗をよくせしめんとならは百姓を富ませよと申す事」が普遍の理である。
ところが、当今はその条理に離反している。そこに「賢士個自窮」我が師友拙齋のような道理をよく弁えた節操堅固な学者が過ごし難い所以がある。拙齋が相次ぐ阿波・加賀両藩からの礼を厚くしての招聘を固辞、「不求上策随朝彦」 藩に出仕し上役の機嫌取り終始せざるをえない愚行を避けたのは無理からぬことである。

 石兮石兮林栖野処得其所

 韜晦慎勿近羃塵 
*(文理解釈)
 逢仙化羊己多事 
 (煩わしい)
 参僧聴経非子真  
(本来の姿でない)
 况作建平争界吏  
(似合わない)
 况為下邳授書人  
(真面目でない)

(石よ、石よ。お前たちはやはり人里離れた似合いの仙境を住処としていると言える。なまじ正義感に駆られ、現世の理非曲直を糾そうとしようものなら我が身を危険に晒す。端から汚れた俗塵に近づかぬ方が賢明である)
 八丈岩
福山市HPより

 結聯で神通力を持つ仙人と石に纏わる中国の四つの故事を引用、再度、俗事に関わらず、名利に囚われない清廉潔白な生き方を補完してこの詩を結んでいる。
恐らく年齢的にもこれが最後と決めた遊学の意義について「嗟我平生懐憂慮 目耕何似躬好」治世とこれまでの自分史を省みて学問か農業か、二者択一の答を自らに問い質そうとしていたものと思われる。

 昨秋、かんなべ図書館で地元有志によって整理された冊子「大石会だより」を読んで蝕発され衰老七十五の身には少々きつい行程であったが、徒歩で早速この詩の故郷を訪ねることを思い立った。
茶山の観桜「閑行」の舞台神辺町湯野山東福院近くの我が家からこれも拙齋・茶山の「聯句戯贈如実上人」ゆかりの国分寺、古代・近世山陽道が東西・南北に交差する南門跡、元はそこにあった道標が移設されている下御領八幡を経て作品の舞台に向かった。

 中途、延喜式内多袮伊奈太伎佐奈布都神社入口の常夜灯前に「御領大石登山道入口」「御領八丈岩登山口約千五百米」の案内標示が重なり合っている。西回りの迂回コースで、中途から舗装道路が一変、清水川の氾濫によって抉りとられた峠道を登りつめ、「赤鬼八&青鬼権」の案内で峠から右折、「小八丈岩」を経て山頂を目指すことができるが、坂道の部分が短い国道313号線井笠バス停「八丈岩入口」からのコースもある。
バス停に隣接する「陽和製粉」横の小路を北上すれば、ここでも「八&権」「御領八丈岩1200m」の案内板がある。渓流西清水川沿いの家並みを通り抜けると道は登り坂に変わる。その昔、この一帯、御領、湯野、その上流の中条、治山治水に苦労した証左に「砂留め」遺跡の多さで知られるが、
現在も平成年代に築かれた隣接する上下二つの砂防堤直下の澗橋を西、東に渡ると早くも第七
番霊場団子岩の標示板が初登山者を元気付けてくれる。件の岩は路傍からは見えないが、直ぐ上方に黒御影石の「御領山大石歌」の石碑が視界に入る。ここでも八&権が再登場。
「頂上まで500m・20分」の道案内。

舗装道路から右折、険しい登山道へ。道すがら地元「御領大石を愛する会」によって植栽・育成されたつつじがひたすら爛春の訪れを待ち望んでいる。荒れた山を「景観大賞」を獲得するまでに蘇みがえらせた地元有志の労苦に思いを馳せながら急な山腹を老躯に鞭打って歩を進め、やっとの思いで山頂に辿りついた。絶え絶えだった活力が蘇り、早速設らえられた鉄梯子伝いに、巨岩の上に立った。

伝説によれば、八丈岩は「元は八龍岩と呼ばれ、往時此岩の処より龍蛇昇天せし」。菅茶山編修の「福山志料」によれば「上御領村の大平野山にある」九つの巨岩の筆頭にこの岩をあげ「東西五間半二尺五寸(約10m)南北七間半(約13・5m)高二間半(約4・5m)面席ノコトシ」。と紹介している。
また、鈴鹿秀満は神官らしく「上御領村道上なる山のつかさに、(十二の)名たたる大石」の筆頭に、八丈岩を挙げ「山の上に小山をたたみ上たるかとあやしまれけるになむ」天地創造の神が造った崇高な岩として記録に留めている。

その昔、茶山や数多の雅人が遥か眼下に眺めた高屋川堤辺りはスモッグにかすみ、後年、郷土の詩人、葛原しげるが旧「御野小学校校歌」(昭和11年制定)に詠み込んだ「深緑の若松・姫松」の林は無残にも松くい虫に殲滅され、今もなお往時の巨躯を雑木林に曝している。峠近く、唐突に姿を見せた路傍のセイタカアワダチ草の毒々しい黄色が飛鳥川の渕瀬常ならぬ時の流れを無常に物語っていた。

水野五代・松平一代を経て福山藩を継いだ阿部家は元祖阿部正勝(幼名 松平徳千代)が天保十六年以降、三河岡崎城主松平広忠の嫡男竹千代(のちの家康)が、織田家・今川家の質子に取られたとき常に供奉していた恩賞として厚遇、信頼され、下野国宇都宮から備後国に転封された。
初代福山藩主阿部正邦は在藩五年で歿したが、第二代正福、菅茶山が存命中の第三代正右、第四代正倫、第五代正精、第六代正寧と代々、藩主は幕府の要職に上り「君は江府に在りて国郡の栄枯、年の凶豊、民の苦楽を知らず」(安部野童子問)一方、国許を預かった家臣、就中、藩主の覚えめでたく臨時職、惣郡之御用係惣纏役に下命された遠藤弁蔵は主君正倫大事に在府と栄進に伴う多額の資金を捻出することにのみ腐心、主君の威光を笠に、「百姓と胡麻の油は搾れば搾るほど出る」とばかりに理不尽な貢租収奪、新税賦課を繰り返していた。
 記録によれば、福山藩では、茶山誕生前の享保二年(1717)に一回、存命中に四回(宝暦三年(1753)、明和五年(1768)、天明六年~翌天明七年(1787)、茶山歿後の天保二年(1831)と五回に及ぶ記録に残る大きな百姓一揆が勃発している。
 寛保元年(1741)制定の罰則によれば、一揆は「渠首固知夷三族」首謀者は打ち首、獄門の極刑。処罰は三族まで及ぶ。加えて明和七年(1787)には懸賞金付きで密告をを奨励している。それ故、一揆は「号哭唯希達九閽」為政者に対する領民の命懸けの強訴であった。現に宝暦一揆(藩主正右)では2名、明和一揆(藩主正倫)では3名の庄屋、本会報21号に紹介された義民北川六右ヱ門(下竹田村)渡部好右ヱ門、定藤仙助(下御領村)が犠牲になっている。

「去年七月七日(天明三年・1782・七月四 雑詩三 122日)怪事傳藉信州山破裂」を契機に、全国的に天災、飢饉、疫病の連鎖。福山藩でも、旱魃、大風雨・洪水、冷害、虫害、地震、などによる甚大な被害が続発している。
その生贄となった夥しい屍を目の当たりしながら、幕藩は救恤の手を差し伸べるどころか時の老中筆頭田沼意次に代表される権力者に迎合、自らの栄進のため、「貧民拙家計、富歳売人償新税」民衆に対してなおも苛斂誅求の課役を尖鋭化して行った。

「天明六年冬国中蜂起期せずして会するもの数万人山河に曝露すること六十餘日綱紀全く崩れ殆ど無政府状態になれり」「禍根は総支配人元締役遠藤弁蔵なる一小人の苛政虎よりも猛かりし」(沼隈郡誌)により自らが倒れるか藩を倒すかの断崖絶壁に追い詰められ民衆は「遠藤弁蔵に百姓致させ六、七月頃に御米上納致させて見たし」の怨念ほか三十か条の要求に一糸乱れぬ結束。「一人の犠牲者も出さず、民衆の要求が丸呑みされるという勝利。
加えて「弁蔵追放の功労者」、藩の大幅人事刷新、換言すれば百姓一揆の鎮静化に協力したとして一旦は捕縛されていた首謀者17名が釈放され藩から褒賞されるという余録つきで収束した。とは言いながら、例によって、蜥蜴の尻尾切りで藩自体は殆ど無傷であった。

小説「天明の篝火」(藤井登美子著)によれば、その総指揮者が、かって大阪城石垣補修工事に関わって不都合があったとして時の阿部城代によって追われた先祖の末裔、人望厚い徳永徳右ヱ衛門説。墓名碑によれば、「先代美久の長男。諱は義質、通称徳右ヱ衛門。穎悟にして寡言、学を好み孝に順ふ。明和四年(1767)十八歳で徳田村里正。福山封内五郡百四十四村で理を以て第一人となす。天明五年九月八日金旌を賜ふ。天明七年(1786)三月十五日。三十八歳で病卒す。菅氏を娶るも子無し」と。

史実はともあれ、老中昇進秒読み段階に入った時の正倫の心理を量り、隣国の外様大名岡山・広島藩主を梃子に揺さぶりをかけながら、鉄砲・刀対鎌・鍬・竹槍の戦闘を未曾有の大勝利に導いた戦果から、奸智に長けた遠藤弁蔵によって福山藩を追われた浪人集団か「遠藤に天誅を加えるべし」との天の声を聞いた重臣が民衆の後押しをしたものとも推測されている。
 天明六年(1786)の百姓一揆の八月、茶山(39歳)は福山藩校弘道館教授に迎えられたが、表面的には病弱を理由に断っているが、その心中は次の詩に託されている。

 己成我貌醜  己に我が貌の醜を成し
 又作此心頑  又此の心の頑を作す
 時被吏人問  時に吏人の問はるるは
 何由栖碧山  何に由って碧山に栖むと

その内面には「秋半還徭役」猫の手も借りたい農繁期に労役を課し、自らの生活の奢侈化には一顧だにしない幕政藩政に対する批判・反発が根強く巣食っているように思える。
翌天明七年(1787)には「先生(茶山)出私蓄」、「擬領斗米賑窮隣」率先して飢饉に 窮隣 前巻三苦しむ人々に救いの手を差し伸べようとするが、貧民の夥しさに「慚我救荒無異術」、焼け石に水成す術もなく、「半生辜負読書身」これまでの遊学は何のためだったのかと、折から商本主義も台頭する中、生涯、農本主義を貫いた頼杏坪と同様、朱子学の理念と目を覆うような現実との乖離に懊悩している。
 
 寛政七年(1795)茶山が福山藩御家人とし召抱えるとのお達しをこれも病弱を理由に断ったとき、刎頚の友、西山拙齋も、敢くまでも処士として生涯を貫いた自らの来し方にも想いを重ね、

 白石清泉君自適  白石清泉君自ら適ふ
 名崖利藪我何求  名崖利藪我何をか求めん
 百年同占升平楽  百年同じく占む升平の楽
 肯向廟廊分国憂  肯て廟廊に向かい

国憂を分かたんやと茶山の選択に賛意を示す詩を贈っている。
 しかし、茶山は再三にわたる藩の要請を断り切れず、徐々に儒官に準ずる扱いを受け容れ出仕するようになって行った。当時、これを変節と揶揄する口がさない輩もいたようだが、寛政八年(1796)の「郷塾取立に関する書簡」提出に至る過程の中で、茶山は青年ならではの純真な理想主義を脱皮、所謂「学種」による世直しの迂遠法、或いは藩の中に身を置き自らの信望を得る中で長期的展望に立脚した幕政・藩政改革への転換を志向したものと考えられる。